空の巣症候群とは言わせない

4○歳、語学学習再開プログラム。時々お酒。たまにパン作り。心の赴くままに。

忘却でも水に流すでもなく

蟠りは、無かったことにすれば良いのだ。

心の中を整理整頓しては筋道を立てて何かしらの納得を得ようとする。そんなに知的作業はほとほと骨が折れる。何かにつけて理由やら大義名分を欲しがり、それがないと前に進めないという有り様。どのみち正しい方向に進むなら、いっそ意図的に、その事が無かったことにすれば良い。

この世に善悪二元論はなく、全てはあらゆる要素が混ざりあった結果の事象。

時には、絡み合って縺れたまま、決してとくことが出来ない蟠りやら呪縛やらにとらわれて息すら出来ないこともあらあな。そんなもの要るかね、必要かね。苦しみしかないのは分かりきってること実際。

損も得もありゃしない。自由になりたきゃ記憶すら消してお仕舞い。

そこから先は能天気にスキップすれば。不思議と楽しくなってくる。方程式不要の掛けるゼロ。

 

疾走と喪失

人生はどこまでも堪え忍ばねばならない。かわしてクリアして前進。ゲームのようだが決してエンターテイメントではない。おまけにライフは一つ。その一つでどこまでも進めるか。攻略本なんてありゃしない。経験の一つ一つから学び取るしかない。そうして人生、はたまたニンゲンの何らかを探り解き明かさねばならない。大方の法則が見えだしたらあとは楽になる。それでもまだ来る。武器と鎧のフル活用。どうしたらホッと腰を下ろせる?下ろしたとたん喰われちまいそうだ。

得ては捨て、得ては捨て、の繰り返し。最終形態は見事に彩られた華麗なドラゴンなどではない。「無」だ。

喪失に向けて疾走。立つ鳥跡を濁さず。ゲームよりもっとシュールなエンターテイメント。即ち喜劇。別名悲劇。

 

存在の場所

地球上であったり、影像や書物の中であったり。はたまた人の心の中であったり。人はあらゆる場所に存在し得る。そして息づく。

10年前に他界した祖父に会いたいと最近とみに思う。もっと話しかけ、もっと対話して、記憶に残るような場面を沢山作っておけば良かったなあと。

祖父が健在していた時、そのような思いにはならなかった。居ないからそう思うのか、あるいは、そう思った頃には召されてしまっているという自然法則的なものなのか。

後者であれば、いかにせん。会うことは出来ずとも今こうして静かに偲んでいる。記憶を辿り、思い出す切り取りのような光景が音声と共に脳裏によみがえらせて。

何となく言葉を発してみる。それがそのまま祖父に伝わっているような感覚になる。そういう法則なのか。

実際のところはわからない。

しかし、実際をどこまでわかっているのかも定かではない。確かと不確かの分け目は滲んでいる。不明瞭に溶け合う万象。理解し得るものだけを摘まんで勝手に認識・確定して「実際」を成り立たせている。個は全てそうやっている。個と個の境界を往き来する。そのやり取りの外に亡き祖父母等はいる。

百合と桔梗

信じられない事が起きた。一夜明けても尚信じられない。夢を見ているかのような唐突の事件。どうやって国民は受け止めたらいいのか。理性が全く機能しないが如く私は混乱している。この事実を受け入れるということをどうしてもしたくないのだ。

献花台が設けられていると知り、なにやら突き動かされるように現地に向かった。馴染みの花屋で百合と桔梗を買い、ただひたすら向かった。

駅に着くとニュースで見た通りの光景が待ちうけていた。なんとも言えない思いが込み上げる。底知れぬ怒りと落胆。なんということを…

献花の列の最後尾にたどり着くのに結構な距離を歩いた。次々訪れる人々。私の前に二十歳前後の男子が三人並んでいた。それぞれ白い菊を手にしていた。彼等のような若者がわりと目についた。セーラー服を来た二人組、お父さんに連れられた幼児や小学生。

あのお方、安倍元首相は、こうした日本の若い人々に「生き甲斐のある国を残したい」という一心でこの国を守ろうと懸命に働いてくれたのではなかろうか。と、ふと感じた。立場違えど私も日本国民として同じ思いを持っている。

喪失感にうちひしがれてばかりいてはならない。明日は選挙。最後まで諦めてはならないのだ。

好きに解釈 君に夢中

知れば知るほど遠退く

真実を追いかける最中に

私が私を欺く

 

よく知らないうちは、対象が自分の思い込みや理想等で成り立つ。が、客観的に対象を知ると、自分の描く像とはかけ離れていると分かる。そこに互いの距離が認識される。

より対象に迫り、より真実に近付こうとすると、深みにはまるばかり。どんどんわからなくなる。逃げだしたくもなるけど、理解しようと手をのばす。

そうこうしているうち、自分は対象への心を見失い、対象の深層や真実を掴むことそのものにとらわれていく。そんな自分は不幸なようで幸福。

 

とまあそんな感じ。

昔観た「アデルの恋の物語」をふと思い出しました。滅びの日には、良い具合に力尽きていたい。

勲章と澄んだ空

夫が老眼鏡を掛けたとき、うっすらと私の首にメダルが掛かった。不思議な感覚。青年が歳を重ねるにつれ老い衰えていく様を、すぐそばで日々見ているとそう顕著に変化は感じ取れないもの。長年連れ添ったその抽象的距離感を記すかの如き老眼鏡。ようやくここまで歩いたんだと空を見上げる心地。

私は歳を取らないとよく言われる。老いのマークが無いので夫はまだ空を見上げていまい。いやマークはあっても見過ごすだろう。若さの秘訣は眠ること。眠ることは死の練習、シミュレーション?みたいなことを何かで読んだ。なるほど。眠るのが好きだ。甘き死よ来たれ。